大萩茗荷村を訪ねて(2)

田村一二氏及びその良き理解者、賛同者の人々の篤き思いとたゆまぬ行動力によって集団移住あとの大萩地区跡の土地などを「先祖の土地が社会のお役にたつのならと、」区有地の無償提供受けて、それを利用した、<福祉的な村>として再度改ためて開村します。(1982年)
こうした動きのひとつの契機になったのが、『茗荷村見聞記(1971年)』の映画化(1979年)から、茗荷会などの「茗荷村を現実に」と言う動きが全国的に広がったことです。

そうして開村してから25年が経過しています。
障害者福祉は、いま。
養護学校と言う箱ができました。バス送迎が当たり前になる。
共同作業所や授産施設と言うポイントが箱に整備されつつあります。
整備されつつある方向は、・・・
<自立>と言う言葉が、安易に、言葉をもまだ受け止められない利用者にも、労働力とはき違えて要請されている部分がある。


鈴鹿山麓に中ほどに、陸の孤島のごとく、茗荷村は点としてある。小さな校庭跡を取り囲むように、家・ハウスや、牛小屋、鳥小屋、がある。豚2頭、にわとり8羽も茗荷村で飼っている。村人(独りの人間)が活動(お仕事)・食事・お風呂以外の生活の場、人(間)として居る場が、家・ハウスです。
里子(小学生、中学生、高校生)や障害者や、村の世話役の人(スタッフ)など総勢20名強ほど混ぜあわせに自立を目指して、自立を抱いて自給自足的な生活しています。
混ぜ合わせの一例が、日々の食事です。質素な食堂でみんながお祈りの言葉を言ってっから食べます。みな思い思いにバラバラに食べるのですが。それでも、バラバラでもこの村では一緒なのが姿なのです。このバラバラで一緒の自然(フツウ)が、不思議です。
鈴鹿山麓の茗荷村では、皆が普通人であり、誰が障害者か健常者か見分けられないし、それよりも比較したり(誰かより出来るとか、しっかりしているとか、勝ったとかは無用)、区別する必要がないようです。ただ普通に混ぜあわせに茗荷村で自立を目指して生活している(生きている)ことが実相です。

ある人は、人懐っこく見知らぬボクに、ボクの来歴を飛び飛びに質問してくる。またある人は、自分の事を、親和力を込めて何度も切れ切れに話してくれる。またある人とは、小さなプラモデルの車を往き複わしていました。またある人は、ボクの居ることを一切無視してあたかも居ないかのように、もしくはズート前がら既知のように、彼女・彼なりに自己完結して動いていました。
ボクといえば、ボクとボクらを往復していたと言うべきか・・・。
そして
私の実感的には、幾人かの人が食後に薬を服用されるので、薬を服用される人の大部分がなんらかの障害をもっているんだろうなと、思いいたった。