音楽療法異論

これは音楽療法に限ったことではないとの判断ですが。
音楽療法を具体例にすれば読んでいただいている数少ない読み人にもいくらか理解や批判をしていただけかもしれないと思って書いてみます。

保育系の職員にたまたま見られる事例でもあるんですが。
障害者福祉で、利用者に一定の課題摘出し、それををクリア出来きた事をもって、もしくは到達させることが、感動物語になったりしています。
例えば
・ パニックを起こして、何を言っても聞く耳を持たなかった利用者が,音(楽)と出会う事で、職員の指示を受けいれられるようになった。
・ 音(楽)を通じて、利用者と職員が意思疎通ができるようになった。瞳を輝かせてくれた。
・ 音(楽)を聞かせて食事を行うことで、偏食に改善の兆しが見えた。
きらいな***を「今日は花丸、何個にする?」「2個!」と言って頑張ってくれた。
・ 「***したねエ!」と喜びを共に分かちあってくれるようになった。
・ 訴えることが出来なかった人が、距離間を無視してお気に入り職員を頼って甘えにくるようになった。
・ これまで日よって急に時間割りが変更になると「違うのー!」と大変なパニックになっていたのに、いくらか見通しがもてる人になった。
・ 最近は、利用者を4歳児程度のこころの渇籐(できるかな?と言うこころの揺れ)を経ていると考えられるように見ています。
・ 社会への不適応をレベルの低いものから、試みてゆくことも視野にいれて個別支援計画を模索しています。
・ ナド等!

だけれど、職員が利用者に出来る事って、本当は限られているんじゃないでしょうか?
職員がスタッフ会議などいろいろ良かれと思って審議検討したことは、特別な場合を除いて、大して役にたっていないじゃないか?
(って言うか。我々職員が、どれだけスタッフ会議で審議検討したところで、もしかしたら、利用者に対して邪魔を こころののびやかさに対して邪魔をしているじゃないかと、自問自答できている職員でないといけないじゃないかな?)

今問うているのは・・・その人なりに(その利用者なりに)音楽療法的には、
リズムに合わせれる。太鼓がたたける。大きな声がだせる。他に利用者と一緒に同じようにあわせて声が出せる。職員の盛り立てに反応できる。など等。
これって、、実は、
一定の音楽水準が、我々の側にあらかじめ想定されている。
一人ひとり、それ(一定の音楽水準が、あらかじめ想定されている)から遅れていても、劣っていても、無関係であっても、職員スタッフは、「○○さん、よくがばったね!良かったよかった!!」
励まして楽しく盛り上げている。
そして、職員も利用者も頑張った、盛り上がった!良かった良かった。めでたしめでたし。
このように錯覚してる事が多すぎるように思う。

こうしたことって、だからこそ!職員は、
「一定の音楽水準が、あらかじめ想定されている」から自由になって音楽と関わってみてはどうなのか?
もっと自由に放任して利用者を気ままにさせて、どんな音楽活動に、そう、どんな<音楽を逸脱した活動になるんか>を楽しみになれるくらい、腰をすえ取り組んでみたら良い。
職員は必要最低限の注意・盛り立てに限定して、ジーと見守り続ける事。
しばらくのちには、
きっと、ものすごい、利用者の活動が、本物音楽の鳥羽口に我々職員を連れて行ってくれるかもしれませんよ。(すごいをたくさんもっているとそのスタッフは叫んでいれた!)



ボクは、新人のスタッフから今日、こうした音楽活動の予兆を、我々の取り組みの欠点指摘として熱く語られて、いたく反省もし、それ以上に考えさせられたので、皆さんの体験や意見も伺いたいので、こうして紹介発言とさせていただきました。

そして音楽療法に限ったことではないと・・・